「自らの意思や努力によっては変えることのできない事柄」はなぜ審査基準を引き上げるか?

  • 職業選択の自由は、事後規制(職業の遂行の規制)よりも事前規制(職業の選択それ自体の規制)のほうが規制態様が強く、また、後者の中でも、主観的条件(本人の意思や努力によって克服できる条件。弁護士業における司法試験とか)よりも客観的条件(そうでない条件。距離制限とか)のほうが規制態様が強いとされる(薬事法違憲判決参照)。
  • 一方、国籍法違憲判決は、「Aに関してBであることをもってXを不利益に取り扱う」ということとする場合、(1)Aの重要性と、(2)BがXの意思や努力によって変えることができるものかどうかに着目して、「慎重に検討」することを要するとしている*。
    日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障,公的資格の付与,公的給付等を受ける上で意味を持つ重要な法的地でもある。一方,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは,子にとっては自らの意思や努力によっては変えることのできない父母の身分行為に係る事柄である。したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である。」
    *なお、学説によれば(1) OR (2)があれば厳格な審査をする必要があるのに対して、判例は(1) AND (2)を要求しているとされる。非嫡出子相続分差別も(1)はさておき(2)は妥当するのに、最高裁は「慎重に検討」とは言っていない。憲法の基本書、演習書等と使用法で紹介した『憲法判例の射程』の8章(横大道執筆)を参照。
  • およそ人格の形成とは選択である
    • サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。行為の選択が人格を形成するということもできる(それはときにつらいことでもある―「人間は自由の刑に処せられている」)。
    • 長谷部先生は、次のように述べている*。
      「比べようのない選択肢に直面して、それでも人は選択します。そうした選択を通じて、人は自分がどのような人間であるか(人間となるか)を選びます。それが人というものです。予算の制約の範囲内で自分の効用の最大化を目指す自動機械にすぎないわけではないでしょう。国家が国民各人の選択に介入すべきでないわけでは、それが、人間が人間らしく生きる余地を可能な限り保障することにつながるからです。」
      *長谷部恭男『法とは何か―法思想史入門【増補新版】』40頁(河出書房、2015)。
  • このように考えると、規制(=選択の幅を狭めること)は、人格の形成の機会を奪うものといえる。そして、同じ選択の幅を狭めるでも、頑張れば克服できるというのと頑張っても克服できないというのでは、人格の形成を妨げる度合いが違う
  • 職業選択の自由にしろ平等権にしろ、自らの意思や努力によっては変えることができないことが強度の規制と評価され、審査基準を引き上げるのは、このような理由に基づくものと考えられる。