司法試験と三段階審査論

三段階審査論の流行

三段階審査論*は、2000年代後半から2010年代前半に次の文献を通じて学生レベルに降りてきた感があります。

*その概要については渡辺ほか・憲法Iのところで述べましたが、詳細については『憲法論点教室』の3章「審査基準論と三段階審査」(松本哲治執筆)がとてもわかりやすいです。

学生の間でも、一時期かなり「これからは三段階審査論」という雰囲気があり、これらの文献が広く読まれていたように思います(当時の書評などを見た印象ですが)。

 

三段階の審査と審査基準論は接合しうる

しかし、「三段階審査論」の普及が本当に三段階審査論を理解してのものだったのかは、よくわかりません。というのも、学生に受けがよかったのは、「権利の保障→制約の認定→形式的・実質的正当化」という明快なフレームワークではないかと思うのですが、このフレームワーク自体は、「三段階審査論」というネーミングから受ける印象と異なり、また、審査基準論の論者が意識的にそういう論証を展開してきたかは別にして、審査基準論にも接合しうるものだからです。

渡辺ほか・憲法Iのところで、三段階審査論と審査基準論(のオリジナル。ドイツとアメリカのそれ)は、「柔軟な比例原則を用いるのか(スライディングスケール)、類型化された審査基準を用いるのか」という違いがあると上に述べましたが*、日本でそれらを主張する論者は、それらをそれらをそのまま輸入しようとしているわけではなく**、また、個別の事案の処理について常に対立するわけでもありません。その点で結果無価値vs行為無価値や新旧訴訟物理論の理論状況に近いところがある気がします。

*ちなみに審査基準の定立とその適用というのは、類型化された利益衡量のやり方であり(高橋和之立憲主義日本国憲法 第3版』135頁(有斐閣、2013))、前者が天秤の左側、後者が天秤の右側を意味します(左右は別に逆でもいいんですが)。このことは、例えば捜査における任意処分の適法性の審査(刑事訴訟法197条1項本文の「必要な取調」の要件充足性の判断。比例原則そのもの)と比較すれば分かりやすいと思います。憲法における審査基準の定立では被侵害権利の重要性と侵害態様を、その適用では規制の目的・手段を検討するわけですが、任意処分の適法性の審査でも、被疑者側の事情として被侵害権利の重要性と侵害態様を、捜査側(=国家、ひいては国民)の事情として被疑犯罪の重大性、嫌疑の程度、緊急性などを考慮します。

**上記4文献のうち駒村先生のものは、そもそも審査基準論に三段階審査を「接ぎ木」しようとするものです。また、宍戸先生も、改訂にあたって、「この第1章のねらいは、憲法学説として三段階図式を流布することではなく、皆さん中級者の学習にとって、三段階図式で考えてみることがひとまず思考の整理として効果的だろうということにありました」と述べています(上掲書2版70頁)。

そもそもオリジナルの三段階審査と審査基準論の違いには、抽象的審査制を採用するドイツと付随的審査制を採用するアメリカのそれぞれの統治機構全体における裁判所(連邦憲法裁、連邦最高裁)のポジションの違いが影響していますが、日本は後者を採用しており、ドイツとは状況が異なります。

 

採点実感の批判は審査基準論に向けられていない

「三段階審査論」の普及のもう一つのきっかけは、長く考査委員をしていた青柳氏がドイツ派であり、採点実感で繰り返し審査基準論を批判してきたということがあるように思います。

彼が一番勢いよくブチ切れていたのは、ストリートビュー的なサービスに関する平成23年の採点実感(法務省:平成23年新司法試験の採点実感等に関する意見)なのですが、次のような記述があります(4頁〜5頁)。

  • 最初から終わりまで違憲審査基準を中心に書きまくるという傾向はますます強まっているように感じられる。最初にこの状況で適用されるべき違憲審査基準は何かを問い,この場合は厳格な(あるいは緩やかな)基準でいく,と判断すると,後は「当てはめ」と称して,ほとんど機械的に結論を導く答案が非常に目に付く。」
  • 「原告の主張を展開すべき場面で,違憲審査基準に言及する答案が多数あった。違憲審査基準の実際の機能を理解していないことがうかがえるとともに,事案を自分なりに分析して当該事案に即した解答をしようとするよりも,問題となる人権の確定,それによる違憲審査基準の設定,事案への当てはめ,という事前に用意したステレオタイプ的な思考に,事案の方を当てはめて結論を出してしまうという解答姿勢を感じた。そのようなタイプの答案は,本件事例の具体的事情を考慮することなく,抽象的・一般的なレベルでのみ思考して結論を出しており,具体的事件を当該事件の具体的事情に応じて解決するという法律実務家としての能力の基礎的な部分に問題を感じざるを得ない。
  • 求められているのは,「事案の内容に即した個別的・具体的検討」である。あしき答案の象徴となってしまっている「当てはめ」という言葉を使うこと自体をやめて,平素から,事案の特性に配慮して権利自由の制約の程度や根拠を綿密に検討することを心掛けてほしい。
  • 原告,被告の主張を戦わせるのに,表現の自由とプライバシーとの実体的な関係について論じないで,審査密度の濃淡だけで優劣を論じているものがあった。違憲審査基準論を振り回すだけの形式論では説得力が生まれないことに気付くべきである。
  • 目的手段審査にとらわれず,両者の人権価値が本問においてどのように衝突しているのかを具体的に分析し,解決を見いだそうとする優れた答案も少なからずあった。しかし,他方で,具体的な分析ができているにもかかわらず,結論に近づいたところで,急に審査基準のパターンを持ち出したために争点から遊離して説得力を失う答案も見受けられた。

これらは、一見審査基準論を問題にしているように見えなくもないですし、青柳氏が三段階審査論を取っていて、三段階審査論の論者は審査基準論を硬直的であると批判してきたことを考えるときは特にそうだと思います。しかし、よく読むと、これらの批判の対象は事案をよく見ない答案であり、「事案を見る」ための場として審査基準論を採用するか、三段階審査論を採用するか、あるいは別のものを採用するか*とは関係がありません(異例の採点実感の「補足」がそのことを確認しています)。審査基準論の下で事案に即した検討をすることは可能ですし、事案をよく見ないで書いている人が三段階審査論を採用したからといってそれだけで事案に即した検討をするようになるわけではありません

*ちなみに私なら、この場面では国家(裁判所)に中立的な仲裁者としての行動を期待しうるので、ノンフィクション「逆転」事件やGoogle逮捕歴削除事件などを参照しつつ、比較衡量によると思います。

ちなみに、最近は採点実感も審査基準論を前提にする感じになってきています(法務省:平成30年司法試験の採点実感)。

  • 権利の性質や制限の態様を踏まえて違憲審査基準を定立し,当てはめるという基本的な判断枠組み自体はほとんどの答案に示されていた。他方,判断枠組みを示さなかったり,観点のない事実の比較や政策的当否の議論に終始したりする答案も見られたが,そのような答案は,憲法論を適切に展開したものとは言えない。」
  • 違憲審査基準を定立するについて説得力の乏しい答案や,目的の審査が極めて雑なもの手段審査がその違憲審査基準に沿っていないもの,具体的な理由を示すことなく形式的に当てはめただけのもの,自らが定立した基準と当てはめが実質的に齟齬しているものが見られた。逆に,目的や手段の審査において,自分なりに理由を示して,実質のある十分な検討を行っているものは全体としても高く評価できた。」

 

上記の4文献を読むべきか?

現在では渡辺ほか・憲法Iや『憲法論点教室』のような、より咀嚼された教材が現れた以上、必ずしも研究書に近い部分のある上記の文献をメインに据える必要はないのではないかと思います*。

*『憲法論点教室』のはしがきは、「法科大学院生向けの書籍や学生向け雑誌の論考の水準と、最先端の研究との距離は非常に近いものになっているように思われる。これは、一部の優秀な学生にとっては非常にエキサイティングなことであろうが、多くの「普通の」学生にとっては困惑の種になっていることも否めない」とした上で、「本書は、…あくまで「普通の」法科大学院性がもう一歩理解を深めることのできる教材を目指した」と述べています。

しかし、メインに据える必要はないということは、読む必要がないことを意味しません。個別の問題について調べている際に、あるいはメインの教材がある程度分かった段階で上記の文献を読むことは、極めて有益だろうと思います(実際目が覚めるような記述に出会うことがしばしばあります)。