香川県ネット・ゲーム依存症対策条例について

香川県が炎上していますね。

 

報道

香川県議会が、全国に先駆けて検討しているゲームやインターネットの依存症の対策に関する条例の素案に、高校生以下の子どもを対象にゲームなどを利用する時間を1日あたり平日は60分、休日は90分に制限するなど、具体的な制限が盛り込まれることがわかりました。

県議会は、ゲームやネットの依存症対策を盛り込んだ条例の制定を目指していて、10日、委員会を開いて素案を示します。

関係者によりますと、素案にはゲームの利用などについて、高校生以下の子どもを対象に1日あたり平日は60分、休日は90分に制限するとともに、夜間の利用は高校生は夜10時以降、小学生や幼児を含む中学生以下の子どもは夜9時以降、制限することが盛り込まれるということです。

こうした制限には、いずれも罰則規定はありませんが、子どもたちに守らせることを保護者や学校の「責務」として明記するということです。

県議会は、10日開く委員会で素案を協議したあと、県民からパブリックコメントを募ったうえで、来月開く定例の本会議に条例案を提出する方針です。

県によりますと、成立すれば都道府県の条例としては、全国で初めてのゲーム依存症に特化した条例になるということで、ゲームの利用時間を条例で制限することの是非や実効性が問われることになりそうです。

県条例素案にゲーム利用時間制限|NHK 香川県のニュース

 

条文案

条文案が、コンテンツ文化研究会のブログで公開されています。

 (PDF化・OCRしたものとして、香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称) (素案).pdf - Google ドライブ

 

義務規定として、①県の責務、②学校等の責務、③保護者の責務、④ネット・ゲーム依存症対策に関連する業務に従事する者の責務、⑤県民の役割、⑥市町の役割、⑦事業者の役割、⑧県の具体的義務(正しい知識の普及啓発、予防対策等の推進、医療提供体制の整備、相談支援等、人材育成の推進)、⑨子供のスマートフォンの使用等の制限(直接的には保護者の義務)の規定があります。

問題のスマートフォン等の使用等の制限に関する規定は、次のようになっています。なお、「スマートフォン等」とは「インターネットを利用して情報を閲覧(視聴を含む。)することができるスマートフォン、パソコン等及びコンピュータゲーム」をいいます(2条(5)号)。

 第18条 保護者は、子どもにスマートフォン等を使用させるに当たっては、子どもの年齢、各家庭の実情等を考慮の上、その使用に伴う危険性及び過度の使用による弊害等について、子どもと話し合い、使用に関するルールづくり及びその見直しを行うものとする。

2 保護者は、前項の場合においては、子どもが睡眠時間を確保し、規則正しい生活習慣を身に付けられるよう、子どものネット・ゲーム依存症につながるようなスマートフォン等の使用に当たっては、1日当たりの使用時間が60分まで(学校等の休業日にあっては、90分まで)の時間を上限とするとともに、義務教育修了前の子どもについては午後9時までに、それ以外の子どもについては午後10時までに使用をやめるルールを遵守させるものとする。

なお、本条も含めて、全ての義務規定に実効性確保のための手段は規定されていません。 

 

検討

さて、このような条例を制定すべきではないことは、少なくとも子供を育てている人々や、これから子供を育てることとなりうる人々の間では、争いはないと言ってよいのではないでしょうか。しかし、それはなぜかと考えてみると、実はそれほど簡単ではない気がしています。

 

子供の権利

権利として保護されるか?

表現の自由

まず問題になるのは、そもそも子供がインターネットを使用することや、ゲームをプレイすることが、何らかの憲法上の権利として保護されるかという点です。

まず考えられるのは、子供のインターネットを利用する自由です。表現の自由を情報流通の自由と捉えれば、さまざまな情報に触れる自由として、インターネットを使用する自由というものを観念することはできそうです(The Internet Bill of Rights is just one piece of our moral obligations – TechCrunchFinland makes broadband a 'legal right' - BBC NewsInimõiguste Instituut/Estonian Institute of Human Rights » Internet)。なお、一般的な知る自由に依拠しないことには意味があります。知る自由との関係では、インターネットの利用制限は、情報の流通経路の一つを制限するに過ぎないのに対して、インターネットという流通経路へのアクセスそれ自体を保護することができれば、ダイレクトな制限になります(権利自体の重要性は下がるのでしょうけれども)。

これに対してゲームはどうでしょうか。ポケモンをやると要件効果思考が身につくとか、マイクラをやると建築への関心が得られるとか、シムシティをやると都市行政への関心が得られるといったことはありうる話ですが、それらを表現の自由でカバーすることは、できないことではないように思います。

 

幸福追求権

とはいったものの、いずれの説明も、現在の我が国における一般人に対する説得力という意味ではかなり厳しいと言わざるをえません。仮に表現の自由でカバーされないとした場合、幸福追求権の問題になります。

一つには、プライバシーが考えられます。時間の処分に口出しするなという話です。もう一つは、人格は行動の選択によって形成されるのであり(Sartre: Existence precedes essence、長谷部恭男『法とは何か』37頁以下)、人格的利益説を前提とした幸福追求権の保護を受けるかどうかはその観点から決定すべきであるところ、学校で画一的に管理されており(ちなみに提案者である大山一郎議員は「いき過ぎた個人主義を増長させる自由・人権主義に偏りすぎた教育を改め、教師の持つ懲戒権と生徒の義務・責任・権利とを明確にし、統制のある指導を行」いたいそうです:香川創生)、また、基本的には金がないため行動が制限される子供にとって、インターネットやゲームは人格形成に関わる貴重な選択肢なのだから、一般的な幸福追求権によって保護されるということが考えられるように思います。

表現の自由以上にラディカルになってしまっている気がしないでもないですが、大山一郎議員の前には霞むというものです。

 

 

権利が制約されているか?

これがよくわからないところです。実効性確保手段を持たない本条例は、いわば「言ってみただけ」なわけですが、それでも一応義務を課していると言えるのでしょうか(フリードリヒとファイナーの論争を思い出します…)。あるいは、事実上インターネット・ゲームに対するネガティブな「空気」を醸成することで、インターネットの利用・ゲームのプレイを阻害することが、法的な権利制約(権利侵害)と言えるのでしょうか。

ちなみに大山一郎議員は「誤った「空気」と戦わなければならない」とおっしゃっています(大山一郎・理念)。本当にそのとおりであります。

 

権利の制約が正当化されるか?

権利の制約があるのかどうかよく分からない以上、正当化についてもしっかりした議論はしようがないのですが、さしあたり、青少年の権利について検討しておきたいと思います。

さて、青少年の権利といえば、 岐阜県青少年保護育成条例事件があります。この条例は、カジュアル(?)な言い方をすれば、県知事が指定した「有害図書」を18歳未満に販売したり、自販機(田舎にありがちなんですが、エロ本自販機というものがあります)に収納したりすることを罰則付きで禁止したもので、これに違反して自販機への収納を行った業者が起訴されたのがこの事件です。本判決は判断の冒頭で次のように述べています。

本条例の定めるような有害図書一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。

そして、伊藤裁判官は、補足意見で次のように述べています。

青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。

また、旭川学テ事件判決も、中学校教員の教授の自由を制限すべき理由として、「普通教育においては、児童生徒にこのような能力〔引用者注:教授内容を批判する能力〕がな」いことを指摘しています。

これらのことは、インターネット・ゲームについても当てはまります。そのため、仮に制約があるとしても、その態様がきわめて微弱であることと相まって、やはり規制は正当化されやすくなると言わざるをえないように思います(もっとも、岐阜県の条例がわいせつという内容に着目してその流通を規制するものであったのに対して、本条例は内容に着目するものではないということには留意が必要です)。

なお、個人的には、パターナリスティックに保護している限り情報の選別能力は育たないわけであり、いつの時点であれ、社会に放り出された時点で未熟な状況で有害な情報にさらされることには変わりがないわけですから、それを遅らせるだけの規制にはあまり意味がないのではないかと思っています。

 

親の権利

以上では子供自身の権利から検討してきたわけですが、親の権利というアプローチもあります。子供のインターネット・ゲームの制限として話題になっていますが、条文案18条2項が「保護者は…遵守させるものとする」としていることからすると、むしろこのアプローチのほうが正攻法なのではないかという気もします。

 

教育内容を決定する権利

教育内容の決定については、旭川学テ事件判決が、いわゆる国家教育権説と国民教育権説を「いずれも極端かつ一方的」として排斥した上で、次のように述べています。

親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。

この判決は、①統一テストが画一的・全体主義的教育につながるとして実力を持って反対した教員を被告とする刑事事件において、教員を処罰する前提として、国が一定の範囲で教育内容を決定する権限を有することを示したものであること、②1971年になされたもので、冷戦期の左右の政治的価値観の対立を背景にしていること、③テストの実施という教育の根幹に関わるものであり、いわゆる生活指導的なものに関わるものではないことに留意する必要があります。

この引用部分の後、最高裁は、教育基本法の解釈に入ってゆくわけですが、今回は教育基本法の問題ではないので、別に考える必要があります。

 

プライバシーあるいは自己決定権

親が子のインターネットの利用・ゲームのプレイを制限するかどうか、するとしてどのように制限するかについては、教育内容の決定にとどまらないところがあり、より広く、プライバシーあるいは自己決定権の問題として捉えるべきであるように思います。

プライバシーあるいは自己決定権については、避妊するかどうかは女性のプライバシーであって、州法で制限すべきものではないとしたRoe v. Wade事件判決(なお、近時の動向について人口妊娠中絶について。また、直近の記事としてRoe v. Wade Abortion Right Threatened by New Republican Strategy - Bloomberg)、不法行為における「法律上保護される利益」の解釈に関してであるが、信仰に従った輸血拒否について、自己決定権による保護とその侵害を認めたエホバの証人輸血拒否事件判決などがあります。子のインターネットの利用・ゲームのプレイの制限の問題も、これらの延長上に位置づけることができます。

すなわち、子のインターネットの利用・ゲームのプレイの制限の問題は、個別的な状況に応じて子の利益を最大化するように決定すべきものであり、そのような決定は本来親にしかなしえないのであり、地方公共団体が制限すべきものではないと言えます。

大山一郎議員も、「家族と社会がお互いに支え合い、家族を守り、家族との絆を深めることができるような【子育て支援】 【就労支援】 【介護支援】を進め」、また、「家族や地域社会の機能を引出し」たいそうなので(香川創生)、家族の自律を確保すべきだという方向性にはきっと賛成してくれるに違いありません。

もちろん、親の権限は子の利益を最大化するためにあるのであり、その点で、インターネットの利用・ゲームのプレイの制限の問題は、避妊や自身の輸血拒否の問題とは異なり、制約が正当化されやすいことになります。実際、子の輸血拒否となれば、裁判所も親の同意拒絶を認めておらず、(病院から医療ネグレクトとして通告を受けた児相の申立てに基づいて)親権停止・職務代行者選任の仮処分などによって対処しているようです(児相、親権停止申し立て23件 両親が子への輸血拒否、障害児を登校させず 「医療ネグレクト」も - 産経ニュース)。しかし、本条例が規定するような制限にそのような根拠があるようには思われません(大山一郎議員が全国都道府県議会議長会理事として「国と地方の協議の場」に出席した際の発言について、国と地方の協議の場(令和元年度第2回)議事録13頁以下)。

 

 防波堤としての家族

このように、便宜的にであれ(あるいは便宜的にであるからこそ)、親に固有の権利を持ち出すことには抵抗があるという考えもあるかもしれません。私も個人的経験から一般に親のことを信用していないので、心情としてはよく理解できるところであり、実際にも条例案を撤回させたところで、親がより苛烈な制限をするということは大いにありえます。

安念先生は1993年の論文の中で、次のように述べた上で、「家族に、権力への防波堤としての機能を過剰に期待してはならない」としています(安念潤司憲法問題としての家族」ジュリスト1022号46頁以下)。

プルボン朝の「絶対」王政の下でさえ、家族(特に貴族の家)やその当主は、現代の家族や家長(もしそういうものが存在するとして)よりもはるかに大きな自律性を享受していた、とはいえるかも知れない。しかし、ルイ一四世の役人たちは、キーボードを一つ二つ押しただけで、個人情報が次から次へと引き出せる便利この上ない端末機をもってはいなかった。重要なのは、統治のテクノロジーの問題である。コミュニケーション技術が未発達であった産業化以前の時代の政府にとって、権力による監視を個人のレベルにまで浸透させることは至難の技であった。こうした制約の下で、ともかくも社会の秩序を維持しようとすれば、一定の完結性と自律性をもった組織に、秩序維持の下請け機能を担わしめるほかにはない。今日の、政府の官僚制が高度に発達した社会においてさえ、例えば日本の企業が典型的であるように、社会秩序維持の役割は、自律的な団体に大幅に委ねられており、決して政府だけが担っているのではない。これまたすでに述べたように、産業化以前の社会にあっては、普遍的に存在する組織には家族と教会しかなかった。かくして、圧倒的大多数の家族が担った政治的機能は、この秩序の下請けだったのであり、家長たちは、その褒美として、いくばくかの自律性を認められていたのである。

しかし、子供の生活など、所詮どのような親を引くかというガチャなのであり(それを是正するとなると国の関与を強めることになりますが、それがより深刻な事態を招くことは明らかでしょう)、利用できるものは利用すればよいのではないかと思っています。 

 

…そういえば、辻村先生の『家族と憲法』はローを出るまでには読まなきゃな…