手続的公正について―「お前が言うなよ」?

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国家が国民の権利を侵害するとき

国家は国民に一定の行為を禁止し、それを破った者には一定の処分を行います。その最も強力なものが刑罰です。例えば「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」とされます(刑法199条)。また、一定の行政分野では、課徴金が課されます(いわゆるカルテル・談合に関する独占禁止法7条の2第1項、優良誤認表示に関して景品表示法8条1項、有価証券報告書の虚偽記載に関する金融商品取引法172条の2第1項以下)。

さらに、非金銭的な処分として、さまざまな業法に基づき、(排除)措置命令、業務改善・停止・廃止命令、免許・登録制であれば免許・登録取消しなどがなされます。

これらの処分はいずれも国民の権利―生命に対する権利、身体の自由、財産権、職業選択・営業の自由を侵害(よりマイルドな言い方で「制約」とも)するものです。それを正当化するためには、対象者が権利の侵害に見合う行為をしたことが必要です。

 

手続的公正

もっとも、正当化には、対象者が権利の侵害に見合う行為をしたというだけでは足りず、処分を課す側にも公正性を確保するための一定のプロセスを踏むことが必要です。「悪いことをしたのだから何をされても仕方がない」わけではないのです。その理由は後でまた考えますが、要すれば、行政処分刑事罰といった危険な武器を振り回す以上、相応の慎重さが要求されるーそうでなければ処分者たる国家が処分の対象者と「同じ穴の狢」に堕することとなる、ということです。

「一定のプロセス」の中身は、処分の内容によりさまざまですが、一般的には、処分事由の法定・行政機関による裁量基準の設定・公表、処分内容の告知、弁明の機会の付与、理由の告知、調査・判断機関の分離などが挙げられます。

 

処分事由の法定・行政機関による裁量基準の設定・公表

処分事由の法定には、処分事由を国会という国民のコントロールから最も近いところで決めるとともに、処分事由を事前に設定・公表しておくという意味があります。

また、それほど重くない処分の場合、国会は判断の一部を行政機関に委ねることが許されますが、その場合でも、判断を委ねられた行政機関は、その裁量をどのように行使するかをできる限り事前に決め、明らかにしておくべきでしょう。もちろん行政機関が自分に課したルールに過ぎないので、それに違反しても直ちに違「法」ではありませんが、平等取扱いの観点から、それを正当化するだけの特殊事情が必要でしょう(そしてその特殊事情が本当に例外的取扱いを正当化するものなのかー無関係な事情ではないのかをよく考える必要があります)。

 

処分内容の告知、弁明の機会の付与

弁明の機会の付与とは、言い分を話す機会を与えることを意味します。処分事由とされた事実について最もよく知っているのは、当事者である処分対象者でしょうから、まずはその言い分を聞くべきだということです。例えば、実際はその行為を行っていなかったとか、行ったにしてもある程度やむを得ない事情があったとかいったこともあるかもしれません。

もちろん、処分を受けたい人はいませんから、対象者は責任を逃れるための非合理な弁解をすることもあるでしょう。しかし、非合理な弁解であるかどうかは言い分を聞いてみて初めて分かることです。その結果、非合理な弁解だと判断するなら、そのように斥けて処分をすればよいわけで、理由を聞く機会を与えない理由にはなりません。

処分内容の告知とは、どのような処分を予定しているかを事前に告知することです。告知された処分が重ければ重いほど処分対象者は熱心に言い分を主張するでしょう。軽い処分を想定していた対象者に重い処分をするのは不意打ちであり、公正ではありません。意味がないかもしれなくても常に全力で言い分を主張せよ、と思う人もいるのかもしれませんが、少なくとも国家はそのような非合理な要求をすべきではないでしょう。

刑罰を課す場合には、起訴・審理の手続がこれらの意味を持ちます。

 

理由の告知

理由の告知とは、処分にあたって、処分者がどのような事実を取り上げ、それをどのように評価した結果、その処分を行うべきであるとの判断に至ったのかを開示する意味があります。これには、自ら説明できないような不合理な処分をさせないという意味と、処分理由に不合理なところがあったときに然るべき不服申立て手段を取るための役に立つという意味があります。

刑罰を課す場合には、判決の手続がこの意味を持ちます。

 

調査・判断機関の分離

処分者は、多くの場合、日頃から対象者の監督も行っています。そのような処分者に任せたのでは、公正な処分がなされないことがあります(重すぎる方向にも、軽すぎる方向にも)。そこで、独立性の高い合議制の機関を設置し、以上の手続を行わせることがあります。

例えば、行政機関が自ら手続・処分を行う場合、処分自体は行政機関自らが行うものの手続は専門の機関に委ねる場合(電波監理審議会、証券取引等監視委員会)、手続・処分の全体を専門の機関に委ねる場合(公正取引委員会。なお、内部でさらに調査部門と判断部門を分離)などがあります。最も徹底したのが、刑罰を課すための手続であり、裁判所という行政機関から完全に切り離された機関に手続・処分を委ねています。

 

「お前が言うなよ」

とはいえ、対象者が手続違反を指摘すれば、「反省していないのか」「一定の違反行為をしたのだから、大人しく処分を受け入れるべきだ」と思うかもしれません。実際、そういう報道があるとコメント欄は必ずそういう人たちで溢れます(News about 加害教員が給与差し止め不服で審査請求 on TwitterGPS事件のときもそうでした)。しかし、これは明確に誤りです。なぜでしょうか。

まず、国民は国家の主権者です。国家を設立し、国家に処分を通じた秩序維持を含む仕事を頼んでいるのは国民です。その国民がそういうことを主張することは、「我々は公正さになど価値を見いださない」と宣言することを意味します。そのような国家が処分の対象者に対して自らこそが正義だと主張しても、説得力はありません。

そして、国民は同時に国家による規制の対象でもあります。国民の主張によって手続的公正さが放棄されたとき、次に不公正な手続によって処分を受けるのはその人自身であるかもしれません。公正さの確保は、自分たちのために他ならないのです。

さらに、一般に、自分の利益に関わる手続違反であれば主張できるし、それに対して利害関係のない第三者はむしろその違反を主張できないというのが、この国の(そして多くの国の)普遍的な法原則の一つです。というのは、自分の利益は自分で守るべきだからです。したがって、国の側が手続違反を犯したとき、それを糾すことができるのは、処分の対象者自身をおいて他にいないのです。もちろん、その結果処分が軽くなるかは全く別の話です。実際、刑事裁判では、しばしば警察の捜査の違法性が認められながら、他の証拠によっても同じ結論に至ることができるとして、罪の成否には影響しないとされます。

 

神戸市の事件について

あえてここまで公務員法の話をしませんでしたが、ここまでのことは公務員法にもあてはまります。

神戸市職員は、①「『重大な』『恐れ』など、極めて抽象的な文言で休職事由を拡大している」、②「仮に条例が有効だと解する余地があるとしても、さかのぼって適用するのは違法」、③「処分対象となる行為を知らされていない」、④市教委が処分説明書に記載した地方公務員法の根拠条文に誤りがある、⑤処分自体も「暴行・暴言の期間や頻度が異なる他の加害教員と一律に行っている」、⑥「自分が関与した部分について、相応の懲戒処分をするというのならやむを得ないが、今回の分限休職処分は全面的に納得できない」としているようです(神戸新聞NEXT|総合|加害教員が給与差し止め不服で審査請求 教員間暴行)。

①、②は処分事由の法定(あまりに抽象的な規定は規定がないのと同じ/事後法処罰の禁止)、③は処分内容の告知、④、⑤は理由の告知に関わるものと整理できます。先に「もちろん、その結果処分が軽くなるかは全く別の話」と書きましたが、⑥からこの職員もそのことは争っていないことが分かります(彼を非難している人々は読んでいないのでしょうが)。

なお、個人的には、条例提案者である市長の会見(神戸市:定例会見 2019年(令和元年)10月24日)から、懲戒に関する法理を潜脱し、懲戒目的で分限を濫用する意図が窺われ、目的・動機違反もありうると思っているのですが、どうでしょうか。